『田園の詩』NO.44  「桜 狩」 (1996.4.23)


 いよいよ花の季節になりました。国東は≪み仏の里≫と呼ばれており、寺院や野ざ
らしの石仏が数多く点在していますが、そのいずれもが花で荘厳されているようです。

 花といえば桜、特筆すべき名所はないももの、至るところで咲き競う桜を求めて、
国東路を巡る人の動きが賑やかになってきました。

 現在では、私達は、桜を尋ね探し観賞することを「花見」といいますが、昔は「桜狩」
といわれていたそうです。「狩」といえば、一般的には動物を捕獲することをいい、ま
た、植物の場合には、食べ物になるものを採集することをいいます。いずれにせよ、
私達の生命の実用になるものを自然から摂取することが「狩」なのです。

 そうだとすると、桜を見に行く行為を「狩」と表現したのは、昔の人が花見を風流
以前の実用と考えていたことになります。

 つまり、桜の木の下に行くのは、桜の精気に感染することが目的だったようです。
そして、桜の精気・生命力を積極的に取り込むために、一枝を髪に飾ったり、花
びらを杯に浮かべて酒を飲んだりしながら、昔の人は、春の一日を遊んだのです。


       
     工房の目の前の畑の隅に≪山桜≫を植えました。大きく育ち、毎年いっぱいの
      花を咲かせてくれます。朝もやの中、朝日を浴びてます。電線が少し気になる
      ところですが、インターネットの線も通っているので、これも仕方ないか…。(07.4写)



 現在の私達も、花の下で春の一日を楽しみます。桜前線が北に進むにつれて、各
地の花見の宴のことがニュース取り上げられています。最近は宴会が派手になり過
ぎて、いわゆる『花より団子』になってしまっている感もあります。

 しかし、せめて一度なりとも花見をせねば気が済まないと思うのは、気持の奥底に、
昔からの日本人としての心情があるからでしょう。

 私達は「狩」という行為で自然の生命力を少し戴き、それで身体だけでなく、心まで
も養ってきたのです。だからこそ、自然は豊かでなければならないのです。

 田舎暮らしが心豊かに楽しくできるのは、一年中、狩をしながら(つまりは、自然か
ら精気をもらい心をリフレッシュしながら)生活できる環境があるからだと思います。
                              (住職・筆工)

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